姉川の戦いは、元亀元年(1570年)6月28日、近江の姉川をはさんで、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉景健の連合軍がぶつかった戦いです。義理の弟だった浅井長政の裏切りから始まり、徳川軍が朝倉軍を川の向こうへ誘い込んだ一手で流れが決まり、織田・徳川の連合軍が勝ちました。
この記事は、AI で作った歴史の動画チャンネル「Pawn samurAI」の動画「【裏切り】義兄の信長を裏切った浅井長政との対決」(2025年10月公開・約42分)で描いた場面の流れを要約したものです。姉川の戦いをわかりやすく知りたい方に向けて、浅井長政が裏切った理由、金ヶ崎の退き口、合戦の流れ、遠藤直経の最後、そして信長包囲網ができていくまでを、動画の章の順にまとめます。映像は AI で作ったイメージで、武将どうしの会話は動画の演出です。
この動画で分かること
- 浅井長政が、妹婿として信頼された信長を裏切った理由(動画の描き方)
- 金ヶ崎の退き口で、信長がすばやく越前から引き返した流れ
- 姉川の戦いの朝、両軍の陣と武将たちの思い
- 徳川家康が、わざと下がって朝倉軍を誘い込んだ一手
- 遠藤直経が信長の本陣に迫り、見破られて討たれるまで
- 勝ったあとに、本願寺・武田・朝倉などの信長包囲網ができていく流れ
3分で分かる動画の要約
元亀元年(1570年)、足利義昭を立てて京に上った織田信長は、越前の朝倉義景を従わせようと攻め込みます。ところが勝利が見えたそのとき、妹・お市の方から知らせが届きます。お市の夫で、信長の義理の弟にあたる浅井長政が、信長の背後を狙っているというのです。動画では、長政が裏切った理由を、昔の六角家との戦いで朝倉の援軍に救われた「恩」として描きます。信長はすぐに退却を決め、木下秀吉と明智光秀にしんがりを任せて京へ戻りました。
浅井家は、美濃から京へ向かう道と琵琶湖の水運をおさえる大事な家でした。その道を取り戻すため、信長は約2万の軍勢で近江へ攻め込み、家康にも援軍を頼みます。長政も朝倉に助けを求め、6月28日の夜明け、両軍は姉川をはさんで向かい合いました。
戦いは、遠藤直経が先陣を切る浅井軍の勢いで始まります。柴田勝家や秀吉の隊は押され、織田の陣は乱れていきました。一方、数で負ける徳川軍は、わざと少しずつ下がり、朝倉軍に姉川を渡らせます。川を渡ったところで榊原康政の隊が横から攻め、朝倉軍は崩れました。横山城を囲んでいた丹羽長秀の隊も着き、浅井軍は正面と横から攻められて退きます。
最後の望みをかけた遠藤直経は、織田兵になりすまして信長の本陣に近づきますが、顔を知る者に見破られて討たれます。織田・徳川の連合軍は勝ちましたが、長政は小谷城にこもり、本願寺や武田信玄、朝倉が手を組む「信長包囲網」が形になっていきます。動画は、この勝利が新しい戦いの始まりだったと結びます。
姉川の戦いの基本
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| いつ | 元亀元年(1570年)6月28日 |
| どこで | 近江の姉川のほとり(今の滋賀県長浜市のあたり) |
| 誰と誰 | 織田信長・徳川家康 と 浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の名代) |
| 軍勢(動画の数) | 織田・徳川 約2万/浅井・朝倉 約1万8000 |
| 勝敗 | 織田・徳川の連合軍の勝ち。長政は小谷城へ退く |
| その後 | 横山城が織田の手に入る。信長包囲網が形になっていく |
序章:浅井長政の裏切りと、金ヶ崎の退き口

動画は、信長が「天下布武」の旗印のもとで勢いを増していく所から始まります。美濃を手に入れてからわずか数年で、足利義昭を立てて京に上り、周りの大名を次々と従わせました。けれども越前の名門・朝倉家だけは、新しく力をつけた織田家に従おうとしません。元亀元年4月、信長は大軍で越前へ攻め込みます。
城を次々に落とし、朝倉の本拠・一乗谷へ迫ったそのとき、お市の方から知らせが届きます。動画では、届いた書状の絵に、信長の背後を狙う人物の姿が描かれていました。お市が両はしを縛った小豆の袋を送って危険を知らせた、という言い伝えもよく知られています。

浅井長政が裏切った理由
動画は、長政が裏切った理由を「朝倉家への古い恩」として描きます。かつて浅井家が六角家との戦いで追い込まれたとき、助けに来たのが朝倉の援軍でした。その恩を忘れることはできない。武門の誇りにかけて、長政はつらい決断をした、という描き方です。長政の裏切りの理由には、ほかにも「朝倉を攻めないという約束を信長が破った」など諸説あります。
浅井家が敵になったことは、信長にとって大きな痛手でした。北近江の浅井家は、美濃から京へ向かう道をおさえ、琵琶湖の水運も握っていたからです。信長はすぐに退却を決め、木下秀吉と明智光秀にしんがりを任せて京へ戻ります。これが「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる退却です。しかし近江の城はどれも浅井方のままで、美濃と京を結ぶ命綱が敵の手に落ちていました。信長は約2万の軍勢で近江へ攻め込み、家康にも援軍を頼みます。
第1章:運命の朝
6月28日の夜明け前、姉川は静かに流れていました。本陣の信長は北をじっと見つめています。妹を嫁がせるほど信頼した長政の裏切りは、信長の心に深い傷を残していました。そこへ家康が駆けつけます。連日の行軍で疲れた顔の家康に、信長は「その方の力が必要じゃ」と声をかけ、2人は言葉少なにうなずき合いました。
浅井の陣では、長政が最後の軍議を開いていました。進み出たのは、老練な武将・遠藤直経です。「先陣はそれがしにお任せくだされ」。長政は、浅井家の命運をこの勇将に託します。一方、朝倉の陣では、総大将の朝倉景健が不安を抱えていました。主君の義景は越前にとどまり、預けられた兵は8000ほど。この数で信長に勝てるのかと迷っています。
織田方では、柴田勝家が兵を励まし、木下秀吉と竹中半兵衛が陣を確かめていました。半兵衛は「遠藤直経が先陣を切ってくるはず」と読みます。徳川の陣では、家臣が「朝倉は数で勝っています」と心配しますが、家康は「戦は数だけで決まるものではない」と落ち着いていました。今川家の人質だったころ、太原雪斎から学んだ兵法が、家康の頭にあったと動画は語ります。
第2章:激突、家康の一手

戦いは、遠藤直経が率いる浅井軍の先鋒の鉄砲で始まりました。浅井軍は水しぶきを上げて姉川を渡り、まず柴田勝家の隊にぶつかります。「鬼柴田」と呼ばれた勝家も押され気味になり、木下秀吉や森可成の隊も少しずつ下がっていきました。秀吉は「ここで下がれば総崩れじゃ」と歯を食いしばります。
西側では、徳川軍と朝倉軍の戦いが始まっていました。数で勝る朝倉軍に徳川軍は苦しみますが、家康は「慌てるな。今しばらく耐えよ」と命じます。家康の頭には、すでに作戦がありました。わざと下がって敵を誘い込み、横から攻める。劣勢を逆にする戦い方です。
「全軍、ゆるゆると下がれ。敵に姉川を渡らせるのじゃ」。勢いづいた朝倉軍は次々と川を渡ります。そこで家康は、榊原康政に「今じゃ、左から攻めよ」と命じました。動画では、稲葉一鉄の隊も反対側から攻めかかります。川を渡ってしまった朝倉軍は、進むことも下がることもできずに混乱しました。

信長は本陣で全体を見ていました。浅井軍の攻めは続き、遠藤直経は織田の陣の中ほどまで破って、本陣へ迫ろうとします。そのとき、横山城を囲んでいた丹羽長秀の隊が戦場に着き、新しい兵の参戦で浅井軍の勢いが止まりました。
動画が描く、姉川の戦いの流れ
| 場面 | 織田・徳川方 | 浅井・朝倉方 |
|---|---|---|
| 夜明け | 姉川の南に陣を敷く | 浅井は大依山を下り、朝倉は魚鱗の陣 |
| 開戦 | 柴田・秀吉の隊が押される | 遠藤直経の先鋒が姉川を渡って攻める |
| 中ごろ | 家康が下がって誘い、榊原康政が横から攻める | 朝倉軍が川を渡り、横を突かれて崩れる |
| 後半 | 丹羽長秀の隊が着き、徳川軍が浅井の横を突く | 浅井軍が正面と横から攻められる |
| 終わり | 信長が深追いを止める | 長政は小谷城へ退く |
第3章:朝倉軍の崩れと、磯野員昌の突撃
川を渡ってしまった朝倉軍は、逃げ道が限られていました。兵は先を争って姉川を渡ろうとし、混乱の中で多くの者が流されます。景健は、戦いが始まってまもなく退却を決めました。農民の兵を多く抱える朝倉軍には、この激しい戦いは重すぎたと動画は語ります。本多忠勝の隊が、逃げる朝倉軍を追いかけました。
朝倉軍が崩れたという知らせに、長政の顔から血の気が引きます。その頃、信長は「長政め、そう来ると思っていたわ」と次の手を打っていました。佐和山城の磯野員昌が、約2000の兵で信長の本陣めがけて突き進みますが、信長の親衛隊が食い止め、戻ってきた稲葉一鉄の隊に囲まれます。朝倉軍がいなくなって空いた浅井軍の横には、徳川軍が攻めかかりました。正面と横の2つの方向から攻められ、浅井軍はついに持ちこたえられなくなります。
磯野員昌の突撃は、織田の陣を何段も破った「姉川十一段崩し」の話としても知られますが、動画では信長の親衛隊が止める場面として描かれています。
第4章:遠藤直経の最後
戦いは、織田・徳川の連合軍に大きく傾きました。浅井の陣が崩れる中、遠藤直経だけは戦場に残っていました。直経は兜を脱ぎ、背中の旗も捨てます。そして、戦場の首を1つ拾い上げ、織田兵の鎧を身につけて、織田の陣に紛れ込みました。「首を取りました。首実検を願いたい」。血まみれの武者が首を掲げているのを見て、織田の兵は道を開けます。本陣まで、あと数十歩でした。
そのとき、直経を見つめる若武者がいました。動画では、美濃にいた頃から直経の顔を知っていた竹中半兵衛が見破り、「そのものは遠藤直経じゃ。取り押さえよ」と叫びます。直経は刀を抜きますが、たちまち取り押さえられました。直経を討ったのは、一般には半兵衛の弟・竹中久作(重矩)と伝わります。

信長は、敵ながら直経の武勇をたたえ、「降伏すれば命は助けてやろう」と声をかけます。直経は静かに首を横に振り、「長政様に申し訳が立たぬ」と答えました。浅井家の老将は、最後まで主君への忠義を貫いて散ります。父の代から仕えてくれた直経の死を聞いた長政は、小谷城への退却を命じました。柴田勝家は追いかけようとしますが、信長は「深追いは無用じゃ」と止めます。疲れた軍で守りの固い小谷城を無理に攻めれば、かえって被害が大きくなると見ていたのです。
第5章:勝利のあとで
夕暮れ、姉川の戦場に勝ちどきが上がりました。けれども、川岸に横たわる多くの兵を前に、喜びの声はやがて静まります。信長は戦いのあとの処理を進め、横山城には木下秀吉と竹中半兵衛を入れました。秀吉と半兵衛は、年貢を軽くし、商いを盛んにして、北近江の人々の心をつかもうとします。
動画では、佐和山城の磯野員昌も、信長の寛大な扱いの約束を受けて降伏し、丹羽長秀が城に入ります。実際の佐和山城の開城は、翌年のことと伝わります。家康は「長政が生き残った以上、この戦いは続く」と、勝ったあとも気をゆるめませんでした。
第6章:それぞれの決意

戦いから3日後、越前の朝倉義景は、早く崩れた軍のことを景健から聞き、「長政を見捨てるわけにはいかぬ」と、反信長の者たちと手を組むことを決めます。小谷城では、長政がお市に「兄上との約束を破ることになってしまった」とわびます。お市は「これも武門の定め。浅井の妻として、殿と運命を共にいたします」と答え、同時に「兄上はこのままでは終わりませぬ」と告げました。
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第7章と第8章:信長包囲網ができるまで
姉川の勝利で、岐阜から京への道は守られ、信長のねらいは果たされました。けれども動画は、ここからが本当の戦いだったと描きます。石山本願寺の顕如は全国の門徒に立ち上がるよう呼びかけ、甲斐の武田信玄は、信長と反信長の勢力が戦って疲れたころに動こうと考えます。京では、将軍の足利義昭が信長のやり方に不満をつのらせ、ひそかに反信長の勢力とつながっていきました。
北に朝倉、西に本願寺、東に武田。のちに「信長包囲網」と呼ばれる大きな連合が、静かに形になっていきます。信長は岐阜で軍議を開き、「敵が連合を組むのは、それぞれに思惑がある証拠。その隙をつく」と語ります。明智光秀は「本願寺は宗教、武田は領土、朝倉は面目、浅井は義理。戦う理由がばらばらです」と応じました。信長は武田への備えを固め、本願寺とは話し合いの道も探ります。力だけでなく、外交でも戦うつもりでした。
本願寺と信長の約10年の戦いは、石山合戦とは|信長と本願寺顕如の10年、天王寺砦の戦いと雑賀衆をわかりやすく で読めます。
よくある質問
姉川の戦いをわかりやすく言うと、どんな戦いですか?
元亀元年(1570年)6月28日、近江の姉川をはさんで、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉景健の連合軍が戦った合戦です。長政の裏切りがきっかけで、徳川軍が朝倉軍を崩したことで流れが決まり、織田・徳川の連合軍が勝ちました。
浅井長政が信長を裏切った理由は何ですか?
動画では、昔、浅井家が六角家に追い込まれたときに朝倉の援軍に救われた「恩」を理由として描いています。ほかに、朝倉を攻めないという約束を信長が破ったからとする話もあり、理由には諸説あります。
姉川の戦いで、徳川家康は何をしましたか?
動画では、数で勝る朝倉軍を相手に、わざと少しずつ下がって敵に姉川を渡らせ、榊原康政の隊に横から攻めさせた場面を描いています。この一手で朝倉軍が崩れ、戦い全体の流れが変わりました。
遠藤直経はどんな武将ですか?
浅井家に仕えた老練な武将で、姉川の戦いで先陣を切りました。最後は織田兵になりすまして信長の本陣に近づきましたが、見破られて討たれたと伝わります。
まとめ
- 姉川の戦いは、元亀元年(1570年)6月28日の、織田・徳川と浅井・朝倉の戦い
- きっかけは、信長の義理の弟・浅井長政の裏切りと金ヶ崎の退き口
- 浅井軍の勢いに織田方は押されたが、家康の誘い込みで朝倉軍が崩れた
- 遠藤直経は信長の本陣に迫ったが、見破られて討たれた
- 勝ったあと、本願寺・武田・朝倉などの信長包囲網が形になっていった
姉川の戦いを知ると、このあとの石山合戦や浅井家の小谷城、お市の方のその後がつながって見えてきます。次は、同じチャンネルの動画をもとにした関連記事もあわせて読んでみてください。
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