石山合戦は、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の本願寺の総本山)が、約10年にわたって戦った長い戦いです。中でも天正4年(1576年)の天王寺砦の戦いでは、信長が自ら少ない兵で砦に飛び込み、足に鉄砲の傷を負いながら本願寺の軍勢を退けました。
この記事は、AI で作った歴史の動画チャンネル「Pawn samurAI」の動画「【歴史的瞬間】石山本願寺の戦い 織田信長 vs 本願寺顕如」(2026年1月公開・約32分)で描いた場面の流れを要約したものです。石山合戦をわかりやすく知りたい方に向けて、戦いが始まった理由、雑賀衆と鈴木孫一の鉄砲、天王寺砦の戦いの流れ、毛利水軍と鉄甲船、顕如の退去と大坂城までを、動画の章の順にまとめます。映像は AI で作ったイメージで、武将どうしの会話は動画の演出です。
この動画で分かること
- 石山本願寺が、ただのお寺ではなかった理由
- 信長包囲網の中で、本願寺が信長と戦い始めた流れ
- 信長が本願寺には「全滅の策」をとらなかった理由(動画の描き方)
- 鈴木孫一と雑賀衆の鉄砲のわなと、天王寺砦の危機
- 信長が少ない兵で砦に飛び込み、逆に打って出た天王寺砦の戦い
- 毛利・村上の水軍と鉄甲船、顕如の退去と大坂城まで
3分で分かる動画の要約
摂津の国、今の大阪にそびえた石山本願寺は、浄土真宗の総本山であり、堀と土塁に守られた要塞であり、経済の中心でもありました。元亀元年(1570年)9月、本願寺第11世の顕如は、信長と戦う姿勢をはっきりさせます。将軍・足利義昭が呼びかけた「信長包囲網」の大事な一角として、各地の門徒に立ち上がるよう呼びかけ、長島や越前で一向一揆が燃え上がりました。
武田信玄の死や義昭の追放、朝倉・浅井の滅亡で包囲網は一度ゆるみますが、毛利が本願寺の味方につき、瀬戸内海から物資を運び込みます。天正4年(1576年)、信長は本願寺との本格的な戦いを決め、明智光秀や佐久間信盛らに天王寺などの砦を築かせて、本願寺を少しずつ囲む作戦をとりました。
5月3日、塙直政(ばん なおまさ)は、守りが手薄に見えた本願寺側の砦を攻めに出ます。ところがそれは、雑賀衆を率いる鈴木孫一のわなでした。約1万5000の本願寺軍の鉄砲に囲まれ、直政は討ち死に。天王寺砦は約3000の兵で囲まれてしまいます。知らせを受けた信長は、わずか100ほどの供で京を飛び出し、集まった約3000の兵で敵の囲みを破って砦に入り、すぐに南から打って出ました。信長は足に鉄砲の傷を負いながらも、本願寺軍を石山まで押し返します。
戦いはその後も続き、毛利と村上の水軍が大坂湾へ向かいます。信長は九鬼嘉隆に、鉄でおおった新しい船を造らせました。天正8年(1580年)、顕如は石山本願寺を明け渡して紀伊の鷺森へ移り、約10年の戦いが終わります。その跡地には、のちに豊臣秀吉が大坂城を築きました。
石山合戦の基本
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| いつ | 元亀元年(1570年)〜天正8年(1580年)。約10年 |
| どこで | 摂津の石山本願寺(今の大阪城のあたり)と、その周りの砦・大坂湾 |
| 誰と誰 | 織田信長 と 本願寺第11世の顕如(雑賀衆・毛利・村上水軍などが本願寺に味方) |
| 動画の中心 | 天正4年(1576年)5月の天王寺砦の戦い |
| 終わり方 | 天正8年、顕如が石山本願寺を明け渡し、紀伊の鷺森へ移る |
| その後 | 跡地に、豊臣秀吉が大坂城を築く |
石山本願寺とは:ただのお寺ではなかった

動画はまず、石山本願寺がどんな場所だったかを語ります。浄土真宗(一向宗)の総本山として、全国の門徒の心のよりどころでした。そして同時に、守りの固い要塞であり、人と物が集まる経済の中心であり、信長に逆らう勢力の最後の砦でもありました。
元亀元年(1570年)9月、顕如は信長と対決する姿勢をはっきりさせます。将軍の足利義昭が仕組んだ「信長包囲網」の一角として、本願寺は各地の門徒に立ち上がるよう呼びかけました。長島、越前、加賀と、日本の各地で一向一揆が燃え上がり、信長の天下統一は大きな危機に立たされます。
けれども、流れは変わっていきます。東から迫っていた武田信玄の急な死、将軍・義昭の京からの追放、朝倉・浅井の滅亡。信長包囲網はゆるみ始めます。それでも顕如はあきらめませんでした。中国地方の毛利が反信長の旗を掲げ、瀬戸内海を通って石山本願寺へ物資を運ぶ道を確かめたのです。
第1章:信長の決断と「全滅の策はとらぬ」
天正4年(1576年)2月、岐阜城では織田家の軍議が開かれていました。朝倉・浅井を滅ぼし、長篠で武田軍を破った織田軍は、勢いに乗っていました。信長は柴田勝家に北陸の加賀を押さえるよう命じます。
そこへ明智光秀が駆け込み、知らせを伝えました。長島や越前から逃げのびた門徒が次々と石山本願寺に集まり、その数は3万とも4万とも言われること。毛利の水軍が大坂湾の木津に出城を設け、兵糧や弾薬を運び込んでいること。西に毛利、東に上杉が敵となり、今は織田の主力を本願寺に向けるのは難しい状況でした。
信長の作戦は、本願寺を少しずつ囲んで、兵糧攻めに持ちこむことでした。光秀と佐久間信盛に、守口・森河内・天王寺に砦を築かせて、石山をけん制させます。そして動画の信長は、こう命じます。今回は顕如との戦いであり、全滅の策はとらない。戦う力のない人や女性・子どもは、石山から出るよう伝えよ。長島や越前の一向一揆では徹底して戦った信長が、方針を変えた理由を、動画は「限られた兵で効率よく戦うための計算」だったと描きます。
第2章:本願寺の策と、雑賀衆の鈴木孫一

天正4年3月、石山本願寺でも軍議が開かれていました。紀伊から駆けつけたのは、鉄砲の名手として知られる雑賀衆の鈴木孫一(雑賀孫市とも)です。動画では、孫一が「以前、顕如様が立ち上がってくれたおかげで命が助かった。その恩に報いる」と語ります。
雑賀衆とは、紀伊の国(今の和歌山県)の雑賀の地を中心にした人々の集まりで、鉄砲を早くから使いこなしたことで知られます。本願寺側には、戦える兵だけでも大きな数が集まっていました。孫一は「兵が多いのは頼もしいが、兵糧攻めを受けたら長くはもたない」と冷静に指摘し、織田の主力が集まる前に、砦の兵を1つずつ倒す策を出します。わざと守りの兵を減らして見せ、相手をおびき出すわなでした。
第3章:塙直政の出撃と、天王寺砦の危機

5月3日の早朝、塙直政は、本願寺側の砦から守りの兵が引いていくのを見て、好機だと判断しました。佐久間信盛が止めるのも聞かず、根来衆を含む約2000の兵を率いて攻めに出ます。けれどもそれこそが、孫一の仕掛けたわなでした。
突然、約1万5000の本願寺軍が姿を現し、雑賀衆の鉄砲がいっせいに火を噴きます。そろった一斉射撃で織田軍の列は次々と崩れ、鉄砲で乱したあとに弓と足軽で攻めかかる流れに、織田軍はなすすべがありませんでした。直政は最後まで戦いますが、討ち死にします。
西の空に立ちのぼる煙を見た光秀は、それが大量の鉄砲の煙だと気づき、急いで天王寺へ向かいます。けれども着いたときには、もう手遅れでした。勢いづいた本願寺軍はすぐに天王寺砦を囲みます。砦に残るのは、けが人を除けば約3000の兵。対する本願寺軍は、ほぼ無傷の約1万5000でした。
第4章:信長、決死の突入
知らせが京の信長に届いたのは、その日の夕方でした。信長は激怒し、すぐに決断します。各地に兵を集める命令を出しながら、自分はわずか100ほどの供を連れて河内の若江城へ急ぎました。
若江城に入っても、急な命令で兵はなかなか集まりません。天王寺砦からは「矢が尽きかけている」「もってあと2日」という知らせが届きます。2日待って集まったのは約3000の兵。約1万5000の敵に対して、あまりに少ない数でした。それでも信長は出陣を決めます。「まずは砦の中の兵と合流することを第一とせよ。むだに敵と戦う必要はない」。

若江城から天王寺砦までは、西へ約8km。信長の軍勢は、まるで1つの生き物のように速く進み、着くとすぐに砦の東側を囲む本願寺軍に突撃しました。信長自らが先頭に立つ姿に、本願寺の兵は浮き足立ちます。砦の中の光秀は、援軍が東の門を目指していると読み、門を開けて信長の軍を迎え入れました。
第5章:天王寺砦の戦い、信長の負傷
砦に入った信長は、驚く決断をします。「敵は、我らがすぐに打って出てくるとは思っていない。籠城すると高をくくっている」。光秀は「打って出るなら、敵の本陣とは反対の南からがよいかと」と進言し、信長はうなずきました。砦に入ってわずか一刻(約2時間)ほどで、織田軍は南から打って出ます。
籠城を予想して休んでいた本願寺の兵は大混乱に陥り、南と西の守りは次々と崩されます。ついに孫一の本陣が見えたとき、雑賀衆の鉄砲がいっせいに放たれました。その瞬間、1発の弾が信長の足を貫きます。それでも信長は「かすり傷じゃ。この勢いのまま攻め崩せ」と叫び、羽柴秀吉らが槍を手に突入しました。
近くまで攻め寄せられると、鉄砲は力を出しきれません。孫一は石山へ引く決断をし、織田軍は石山本願寺の木戸の前まで追いかけました。動画では、この日、本願寺軍の約2000の兵を討ち取ったと語ります。この勝ちで、織田軍は陸の上で石山本願寺を囲む形をととのえ、本格的な兵糧攻めが始まりました。
| 場面 | 織田方の動き | 本願寺方の動き |
|---|---|---|
| 5月3日 | 塙直政が約2000の兵で出撃し、討ち死に | 鈴木孫一のわな。約1万5000で迎え撃つ |
| その後 | 光秀・佐久間信盛ら約3000が天王寺砦にこもる | 天王寺砦を囲む |
| 2日後 | 信長が約3000の兵で囲みを破り、砦に入る | 東側の囲みを破られる |
| 一刻後 | 南から打って出る。信長は足に鉄砲の傷 | 混乱し、石山へ引く |
第6章:毛利水軍と鉄甲船、新たな戦いの予兆

天王寺の戦いのあと、織田軍は守口・森河内・天王寺の3つの砦で、石山本願寺への補給の道を断っていきました。本願寺の中では、顕如が「野戦で信長と戦うのは愚かな策だ。籠城して援軍を待つ」と決めます。
そのころ、京を追われた将軍・足利義昭は、毛利のもとで反信長の動きを続けていました。義昭の願いを受けて、毛利は村上水軍を動かします。瀬戸内海から石山本願寺へ兵糧と弾薬を送り続けるためです。動画では、その数は約600隻と描かれます。
報告を受けた信長は、自分の側にも強い水軍が必要だと考え、志摩の九鬼嘉隆を呼び寄せます。命じたのは、鉄でおおい、大砲を積んで、敵の鉄砲や火矢をはね返す船。のちに「鉄甲船」と呼ばれる船の始まりでした(鉄甲船の作りには諸説あります)。北陸では柴田勝家が一向一揆と戦い、甲斐では武田勝頼が力を取り戻そうとし、越後の上杉謙信も動き出していました。石山本願寺をめぐる戦いは、天下の行方を決める戦いへと広がっていきます。
石山合戦の終わりと、石山本願寺の跡地

動画の最後は、その後の流れをまとめます。
- 雑賀衆:天王寺での負けのあとも本願寺に残り、最後まで戦いました。その鉄砲の技は、のちの時代にも重く用いられたと動画は語ります
- 佐久間信盛:直政の出撃を止められなかったことは、のちの信長との関係に影を落とします。信盛は数年後に信長から追放されますが、その遠い原因はこの一件にあったとも言われます
- 顕如:毛利水軍との海の戦い、朝廷を間に入れた和睦の話し合いを経て、天正8年(1580年)、石山本願寺を明け渡し、紀伊の鷺森へ移りました。約10年にわたる石山合戦の終わりです
石山本願寺の跡地には、のちに豊臣秀吉が大坂城を築き、天下統一の拠点としました。今の大阪城公園のあたりです。信長は、天正10年(1582年)の本能寺の変で明智光秀に討たれます。動画は、天王寺砦で信長の窮地を救った光秀が、のちに信長を討つことになった皮肉にも触れ、「この時点では、光秀と信長の間に強い信頼があった」と語ります。
本能寺の変の流れは、同じチャンネルの動画をもとにした記事 本能寺の変とは|明智光秀はなぜ裏切ったのか、敵は本能寺にありをわかりやすく にまとめています。
よくある質問
石山合戦をわかりやすく言うと、どんな戦いですか?
元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)が戦った、約10年の長い戦いです。本願寺には全国の門徒や雑賀衆、毛利・村上の水軍が味方し、信長は砦で囲む兵糧攻めと水軍の強化で対抗しました。最後は顕如が石山本願寺を明け渡して終わりました。
石山本願寺は、今のどこにありましたか?
今の大阪城のあたりにあったとされます。石山本願寺の跡地には、のちに豊臣秀吉が大坂城を築きました。
雑賀衆とは、どんな人たちですか?
紀伊の国(今の和歌山県)の雑賀の地を中心にした人々の集まりで、鉄砲を早くから使いこなしたことで知られます。石山合戦では、鈴木孫一(雑賀孫市とも)が率いて本願寺に味方し、天王寺砦の戦いでも鉄砲で織田軍を苦しめました。
天王寺砦の戦いで、信長はどうして勝てたのですか?
動画は、信長がわずか約3000の兵で敵の囲みの薄い所を破って砦に入り、敵が籠城を予想して油断しているうちに、敵の本陣と反対の南からすぐに打って出たことを描いています。近くまで攻め寄せたことで、雑賀衆の鉄砲が力を出しきれなくなりました。
まとめ
- 石山合戦は、織田信長と石山本願寺の顕如が、元亀元年(1570年)から約10年戦った戦い
- 本願寺は信長包囲網の一角となり、雑賀衆や毛利・村上の水軍が味方した
- 天正4年(1576年)、塙直政が雑賀衆のわなで討たれ、天王寺砦が囲まれた
- 信長は少ない兵で砦に入り、すぐに打って出て、足に傷を負いながら本願寺軍を退けた
- 天正8年(1580年)に顕如は石山を出て、跡地にはのちに大坂城が築かれた
大阪城公園を歩くときに、ここに巨大な寺の町があったことを思い出すと、石山合戦の10年がぐっと身近になります。
関連記事
AI で動画づくりを効率化したい方へ
Masayume が実際に使っている自動編集の進め方は、「Masayume式 自動編集スターターキット」にまとめています。AEなしで、YouTube の長尺の1本目を公開するまでの7日間です。キットの内容を見る
AI 動画の作り方は、公式LINE でもお届けしています。公式LINEに登録する
社内で動画づくりを回したい法人の方は、法人向けのご案内 をご覧ください。
